バリ芸能への思い込みと誤解(ウブドを題材に)
――― 観光客向けの芸能―――
バリの芸能音楽の鑑賞を目的としてウブドに滞在することは、大変、効率の 良い選択であると思います。
勿論、ウブドにしか優れた芸能・音楽が無いわけではありませんが、ご存知 の様にウブドでは毎晩2〜3の民族芸能の公演が観光客用に上演されています。 ここに滞在していれば毎晩の楽しみにはこと欠かないでしょう。
しかしながら、「神に捧げる伝統芸能」として紹介されがちなこれらの定期 公演での演奏、舞踊は、神様に捧げている訳ではありませんし、「バリ芸能の 中心地」として有名なウブドで上演されるこれらの公演内容がバリの芸能の全 てでもありません。
これらの公演は、宗教儀式の場で奉納される踊りや音楽が目的で、儀礼の場 でのふるまい方を知らない観光客が祭礼中の寺院に押しかけないようにするた め、半ばカムフラージュ目的で捻出された、いわば「外国からのお客様をおも てなしするためのだしもの」です。勿論、観光事業としても外貨を稼ぐのに大 変有効な手段でもあるからこそ、毎晩のごとく上演されるのですが。
ときたま、定期公演ですら「神秘の宗教音楽、神に近づく舞踊」などと神聖 化しようとする、過度のエキゾチック趣味をもった旅行者を見かけます。しか し、ほとんどの観光客にとっての定期公演は、「リゾートライフを華やかに演 出するための小道具」として作用しています。勿論、バリ人達はその為に上演 を行っているのだから、これは当然です。
バリの芸能音楽が宗教と密接に結びついていることは事実ですが、だからと いってそれらの全てが宗教音楽・舞踊ではありません。又、ガムラン音楽、バ リ舞踊の全てが古典でもありません。バリ人は娯楽としての音楽、舞踊を、絶 えること無く創作し続けています。
とはいえ、これら観光客向けの定期公演も芸術的に優れていることはいまさ ら断るまでもなく、昨今、観光客を意識して創作された舞踊が、寺院等で執り 行われる祭礼で上演されるといった逆転現象が起こることもしばしばです。こ れは、「いいものは取り入れるがそこに何が関与しようとバリはバリ」といっ た、バリ芸能の間口の広さ、底の深さ、それにたずさわる音楽家、舞踊家の自 信を証明する良い例でしょう。
――― どういう楽団を見に行くべきか ―――
いくら観光客向けとはいえ、半径5キロメートル程の狭い地域で複数の楽団 が、それも同じ日の同じ時間帯に公演を行っているという事実は、ウブドに芸 能を求めてやって来る観光客がいかに多いか、転じてウブドで演じられる芸能 がいかに魅力的であるかを雄弁にものがたるものだと思います。
しかし、ウブドで「どの楽団が良いか」とバリ人に尋ねるのは、全く愚問で す。
なぜなら、大家族が未だに大多数を占めるバリでは、必ずといっていいほど 一家に一人はどこかの楽団員がいる為、家族が参加している楽団を勧めるに決 まっているからです。
同じような理由で、バリに長く滞在しガムランや舞踊を習っている日本人に 聞いても、往々にして客観的な意見が返ってきません。先生の所属する楽団に 肩入れするからです。
要は、自分の好きな楽団は自分自身で見つけるしかないのです。ウブドに行っ たら、時間の許すかぎり様々な楽団の公演を見ることをお勧めします。周囲の 意見を鵜呑みにする必要はありません。1〜2週間滞在しただけでは、「もう、 見たい楽団が無くなってしまった」なんて悲しいことは、ことウブドに限って はありえないのですから。
――― 有名楽団 ―――
ウブドには海外公演の経験もある有名な楽団がひしめき合っており、そこか らは有名な舞踊家、音楽家が多く輩出されています。
しかし、有名であることが即ち無名よりも技術的に勝っているとは限りませ んし、頻繁に観光客向けの公演をおこなっていれば有名になる、という可能性 も考えられます。
技術的に優れている音楽家、舞踊家から順番に観光客向けの定期公演に参加 しているわけではない、という事実も軽んずることはできません。素晴らしい 技能を持ちながら人脈に恵まれず、自らの才能を開花させる舞台に出る機会の ない舞踊家、音楽家もたくさんいます。勿論、お金儲け目当ての観光客向けの 公演に出演することを頑なに拒否する、誇り高き芸術家も多くいます。
ある一時期その実力に対する正統な評価として高名を獲得した楽団が、必ず しもその名に恥じないだけのクオリティを保ち続けているとも限りません。楽 団はいうなれば「生き物」です。ほとんどの場合、中核をなす主要メンバーを 除き団員は流動的であり、ことあるごとに新陳代謝を行っています。有能なメ ンバーの脱退、世代交代などにより、一時的に楽団の質が下がることもありえ ます。しかし、そういった逆境を何度となく乗り越えてきたからこそ、有名楽 団は現在も有名であり続けているのです。
――― 楽団の地域性 ―――
さて、ガムランの楽団というと、「村が運営管理を行う公共団体であり、村 の奉仕労働と同じように一家から一人団員を供出し、毎夜集まって練習を重ね、 地元寺院の祭礼の際には神様をお迎えするための儀式進行音楽を演奏し、お迎 えした神様をもてなすための踊りの伴奏をつとめる」というのが、現在、ガム ラン楽団の地元立脚性、地域共同体性を語る上でもっとも魅力的な定説になっ ています。
しかしながら、これは必ずしも正しくありません。現在、ウブドで定期公演 を行っている楽団のほとんどはウブドに活動拠点を置いてはいるものの、楽団 の質を向上させる為、他の村の有能な音楽家を参加させていたりします。そう いった意味では、楽団員は必ずしも土地の村人とは限りません。
外国人の後援者がいることも珍しくありません。観光事業で外貨を稼ぎ、お 金持ちになったバリ人が私財を投入して新しい楽団を結成するパターンも見か けます。又、ウブドの王宮、プリ・サレンで演奏しているいくつかの楽団は、 スカワティ王家の庇護のもとに運営されているようですし、プリアタンの有名 楽団の数々は、バリ芸能の素晴らしさを世界に知らしめたマンダラ家が中心に なって運営されていると思って間違いないでしょう。
では、これらの楽団は公共の行事、例えば地域の寺院での祭礼等には参加し ないのか、というと、勿論そんなことはありません。特定の地域に根を下ろし ていれば、それは楽団の成り立ちがどうであれ出資者が誰であれ、その地域の 楽団であると村人は認識し、誇りに思っているようです。地域共同体が運営し ているかどうかなどは、演奏する上では全く問題にはなりません。
つまり、「ガムランの楽団は村の持ち物」といった地域共同体幻想は、ウブ ドの有名楽団には必ずしもあてはまらない、ということです。勿論、完全に地 域共同体の運営する楽団も多数存在しますが、そういった楽団はオダランのよ うな宗教儀式でもないと演奏しません。
――― オダランは誰の為のものなのか ―――
バリにはもともと寺院が多い上、それぞれの寺院には210日という短い周 期で起源祭(オダラン)がやってきますので、絶えずそこかしこでお祭りをやっ ています。寺院でオダランがあれば、まず確実に踊りや演劇が上演されます。 勿論、ガムランが伴奏をします。
これらの上演は、オダランの期間中、寺院に一時的に滞在している神様をも てなすためのものですが、人間もこの楽しみのおこぼれにあずかれるという、 まことにもって心憎い合理的な企画です。
我々が客としてバリに滞在している期間中も、行く先々でオダランに遭遇す る筈です。観光ショー化されていない地元の人達(そして勿論、神様)の為の 芸能をちょっと見てみたくなる人も多いでしょう。
しかしながら、観光の延長の感覚をこれらの宗教的儀式に持ち込みむことは 避けなければなりません。宗教儀式で演じられる芝居、踊られる舞踊は、それ がいかに鑑賞に値する見事なものでも、信仰心の厚い土地の人達のものである ことは間違いありません。
観光客はバリの人々が観光客向けに用意してくれた芸能で満足すべきなので すが、寛容なバリの人達は礼儀正しいお客さんをもてなすことを誇りに思って います。泊まっている宿のご主人や従業員が誘ってくれるなら、同行させても らうのもいいでしょう。勿論、TPOをわきまえないと、せっかく誘ってくれ た人に恥をかかせることになります。このTPOをわきまえているかどうかは、 日本と同じ様に先ず身だしなみで判断されます。
宗教的儀式の場で恥ずかしい思いをしないように、オダラン期間中の寺院で はバリ式の正装をすることをお勧めします。寺院内での我々に対するバリ人の 扱いが全く変わってきますし、自分も儀式に参加しているかのようなすがすが しい気分になれます。又、最近はスレンダン(帯)やサロン(腰布)を巻いた だけの略式の正装では寺院に入れてくれない場合も多いようです。
お寺に入れてもらったからといっても、全て受け入れられたわけではありま せん。寺院内での振る舞いには充分に注意する必要があります。お坊さんより 高い位置に上らないこと、お祈りしているところを撮影しないこと、等々。総 じて儀式の進行を妨げる様な行動をとらないこと。ちょっと考えれば気がつく はずなのですが、ときとして忘れがちです。
観光客は記念の為にやたらと写真を撮りたがりますが、これは往々にして問 題を引き起こします。特にフラッシュ撮影をする場合は充分に気をつける必要 があります。娯楽の為の芝居や踊りについては、儀式の進行と関係ない場所で 上演されているなら、(集会場、闘鶏場、寺院の前庭、等)フラッシュ撮影も 大丈夫だと思います。しかし、神様の降りてくる場所、神様をお迎えしている ところは駄目です。簡単な見分け方の例として、小さな祠がいくつかあったら そこは神様の場所です。
写真撮影に限らず、周囲のバリ人がしていない行動を自分がとるに際し心配 な場合は、同行しているバリ人に確認を取ったほうがいいでしょう。
しかし、本来は許されないことでも、観光客のやることならいたしかたない、 とバリの人々は半ば諦めており、大抵の事ならOKを出してしまいます。そう いった意味では、彼らに許可をとること自体が無意味なのかもしれません。も し、自分が今からとろうとしている行動が彼らの失望の原因や非難の対象には ならない、という自信がない場合は、やめておくにこしたことはありません。
――― バリの芸能を習うということ ―――
バリには、舞踊やガムランを習う為に長期滞在している日本人が大勢います。 1回だけの体験レッスンをする観光客を含めると、これらは膨大な数に上りま す。勿論、上手い下手もあるし、真剣な人もいれば遊び半分の人もいる為、彼 ら、彼女らを、「同じバリの芸能を習っている日本人」として、ひとくくりに することは不可能です。特にウブドには、何度もバリに通っては踊りを習って いる日本人、そのまま住みついてしまった日本人がたくさんいます。同じよう に、絵画や彫刻などを習う外国人も多く、現在、ウブド全体が「カルチャース クール村」の様相を呈しています。
長くバリ人の先生について踊りを習っていると、オダランの余興で踊らせて もらえることがあり、このところそういった日本人もよく見かけるようになっ てきました。
本格的にやろうとすると体力的にも精神的にも疲れますが、舞踊やガムラン のレッスンは、単なるトロピカルリゾートの枠には収まりきれないバリの魅力 を形成している独特な文化に触れる為には大変有効な手段であり、ふだん日本 ではなんとなく世情に流され、自分自身に精神的な栄養を与えることを忘れが ちな我々を、「何か創造的なことをしている」という気持ちにさせてくれます。
先生はガイドブックを頼りにしなくても簡単に見つかります。宿の主人、従 業員に相談してもいいし、気に入った楽団の定期公演でメンバーを捕まえて相 談してもいいでしょう。
ただ、重要なのは、何を求めて習うのか、どこまで習うのか、習ってどうし たいのか、またはどうしたくないのかを自分自身ではっきりと自覚することで す。あくまでも話のタネとしての数回程度の体験レッスンなのか、学問として 真剣に取り組みたいのか、ガイドブックに写真が載っている有名な舞踊家、音 楽家とお近付きになって、一緒にとった写真を記念にしたいだけなのか…
付記
――― ウブドは本当に田舎なのか ―――多くのガイドブックは、「バリの大きな魅力はビーチにある。しかし、バリ の神髄はウブドにある」と、観光客を煽ります。
最近は大分騒がしくなってきましたが、ビーチの喧騒が煩わしく思える「自 然派志向」の観光客にとっては、ウブドは心の安らぎを与えてくれる格好の田 舎町ではあると思います。
しかしながら、ウブドで観光業(ロスメン、レストラン等)を営む、もしく はこれらの仕事に従事するものはこのことを良く知っています。又、そうある ようにビーチエリアとウブドを切り分けて考え、ウブドらしさを失わないよう にこころがけ、旅行者が居心地良く滞在できるよう、気がつかれないように 「心配り」をしています。
つまり、ウブドの「田舎っぽさ」「素朴さ」は、かなりの部分が演出された ものなのです。このことを理解すると、「のんびりした田舎町」の別の顔が見 えてきます。