BALI thorugh Media: バリ島にいく前に!: 治安: インドネシア経済危機と騒乱 in 1998

1999.10.25 更新
●経緯
●日本政府の対応



経済危機などをきっかけとした30年ぶりの政変は、 いったん小康状態をえましたが、 すくなくとも大統領選挙が無事終了するまでは、 インドネシア共和国の政治的安定は望めないようです。
経済の安定はそのまた後の課題となるのでしょうか。

1998年前半の騒乱〜政権交替をふりかえってみます。


●経緯


1998年1月頃から
政治経済の不安から、ジャワ島などでは暴動が起きたり、日本人が殺傷され たり、といった事件が発生してきた。
中国系インドネシア人を中心とした経済構造やスハルト大統領の親族に有利 な経済政策への反発が、その根にあると分析されている。
5月
デモ中に国軍による死者がでた(学生4人、5月12日、トリサクティ大学)こと がひとつのきっかけとなって、スハルト大統領退陣をもとめるおおきな騒乱 にまで事態は拡大した。
多くの富裕層は、危険を避けるために、シンガポールなどの周辺国や、ジャ ワ島北部のリゾート地、バリ島に避難している、とのこと。

インドネシア国家人権委員会は、5月中旬のジャカルタ騒乱で1188人の死者を 確認した、と発表(6月3日)。
5月18日
ハルモコ国会議長が全四会派代表の総意としてスハルト大統領に辞任を要求 した一方、 ウィラント国軍司令官はスハルト大統領支持を表明。
5月19日
スハルト大統領がテレビで演説し、 危機を収拾する責任を果たさなくてはいけない、 と即時辞任を否定。しかし、同時に、
  1. 学識経験者らで構成する改革委員会の設置
  2. 選挙法の改正と極力早い総選挙実施
  3. 次期大統領選挙への不出馬
  4. 内閣改造による改革内閣の発足
などをうちだした。
即時辞任を求める学生たちはこの演説に反発し、国会議事堂を占拠。
5月20日
流血などの惨事を避けるために、「国民覚醒の日」にあたる20日に予定され ていた首都ジャカルタでのデモの中止を、反政府イスラム団体ムハマディア のアミン・ライス議長が呼びかけた。
国軍治安部隊がデモ予定地に通じる幹線道路を封鎖。同時に、学生たちを国 会敷地内に閉じ込めた。学生たちは大統領宮殿にむけてのデモを断念、敷地 内で集会。
中央銀行が再び決済業務を停止。
オルブライト米国務長官が、スハルト大統領の退陣を要求する演説。
5月21日
スハルト大統領が辞意を発表。ハビビ副大統領が昇格して後任にあたる。 演説要旨は以下の通り。
  1. 私がリーダーシップを保つことは極めて難しくなった。憲法に基づき、 私はインドネシア大統領の職からの辞任を宣言する。
  2. 改革委員会は各方面の合意が足りなかったため、実現できなかった。内 閣改造はもはや必要なくなった。
  3. 後任には憲法第8条に基づきハビビ副大統領が就任し、2003年までの任 期を引き継ぐ。
  4. 治安を維持し、さらに国内の発展を継続するため、現在の改革を進める ことが必要である。
  5. 任期中の支援に感謝する。もし私に間違いや至らない点があれば、国民 に許しを請いたい。

ハビビ新大統領は、縁故を排するなど、スハルト色から脱しようとする政策 をとっていると見るむきもあるが、それは反対勢力とのバランスからしかた なくやっていることとする見方や、単なる隠れみのとする見方もある。
インドネシアがこのまま順調に危機を脱することができるのか、まだ事態は 不透明。
6月3日
学生たちによる反政府デモがスラバヤなど地方都市で続いている。 この日、ハビビ大統領の退陣をうったえた1000人規模のデモがジャカルタで 行なわれた。国軍が出動したもよう。
6月6日
ハビビ大統領が、総選挙を1999年5月、正副大統領選挙を1999年12月に実施す る方針を発表した。


●日本政府の対応


日本政府は、5月14日、在インドネシア邦人救出のために自衛隊機派遣の検討 をはじめ、自衛隊機をシンガポールに待機させるなどの処置をとった。
5月26日、インドネシア情勢が鎮静化に向かっていると判断し、在留邦人保護 のため、現地に派遣した自衛隊機と巡視船との撤収を決定した。
5月28日にひきつづき、6月2日に外務省海外危険情報は危険度がひきさげられ た。


外務省海外危険情報 ・インドネシア の推移

なお、
在ジャカルタ日本国総領事館からのお知らせ
在インドネシア日本国大使館からのお知らせ
を web から見ることができます。


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